キミのナカで
095:黄昏時にそっと消えてゆく、そんなものになりたかった
日が沈む時の刹那に紅い時間がある。昼間の碧い空が次第に暗くなっていく過程で燐光の眩さで朱色に染まる空を見る。目の裏へ灼きつくと思う血の色さえ連想させる朱の後に来るのは帳の黒闇だ。星や月が瞬く前と朱色に挟まれた空の闇は深い。闇が抱える深さはそのまま朱色から引き継がれたものだ。夕立の紫雷を秘めて奔らせながら、雲さえ貫き通す強い朱を見せながら、空はいつの間にか黒闇に染まっている。リョウは通路に設けられている窓の奥からそれを見ていた。よく磨かれた硝子も欧州風の装飾を帯びた窓枠。鎧戸なのか遮光パネルなのか判らないがカーテンはない。だから空が見えたし気づいた。床が赤かったので目を上げると灼きつく朱に染まってた。
眩しいように眼を細めるのは言い訳で見たくないのか目を眇めている。かはたれどきって言うだろう。彼は誰時。だから逢魔が時とも言うのさ。相手が誰だか見分けにくい頃合い。たぶん視界が暗さや明るさの変化に対応しきれてないんだ。人でなしや魔物に会うから気をつけろよ。誰が言ったかわからない台詞を思い出す。確定証拠もないのに言われたことをなんとなく呑み込んでしまう。ひとでなしなら会ってみたいもんだな、と心中で呟く。リョウたちがこの団体に所属が極まるまでに人でなくなったものは多い。一人くらいは会いにこねぇかな。ひょっとしたらもういるかも。見守っていて欲しいとは思わない。だがリョウはたぶんこの行動を褒めて欲しいのかもしれない。たくさん犠牲にした。だから犠牲になった人の赦しがほしい。何も知らない奴の言葉は軽くて駄目。それとも何やってるって怒鳴られるかも。
感傷だと気づいてる。リョウは地下組織だったから夕暮れなんてものを眺めるような暇も場所もなかった。久しぶりに見つけたそれが不意に傷を揺り起こす。普段は舐めるどころか省みることさえないのに。景色は人の感傷を呼ぶ。ふわ、と揺れるものが視界をよぎってそちらを向いた。三つ編み。鋭さを増すリョウの視線の先で、アキトが壁にもたれたままリョウを眺めていた。背中を預ける格好ではなく器用に片方の肩だけを壁につけて斜に立っている。長くて蒼い三つ編みが振り子のようにしずしず揺れる。長い前髪がアキトの顔の半分を隠す。きちんと姿勢を正せばちゃんと顔が出るのにアキトはどうもその辺りがぞんざいだ。上官や公の席ではきちんとしているがそうでない時との落差が激しい。リョウたちに対する時など明確に気も手も抜いている。黄昏の朱を浴びてアキトの髪は黒紫に見える。普段は驚くほど蒼い艶の髪だ。しかも長い。きつい三つ編みにしてあるからあんまり鬱陶しくないのだが、不意に透ける髪の蒼さが不思議だ。それが今は紫に見えてハッとする。揃いの制服だがリョウは馴染みと一緒に好きなようにカスタムしている。アキトは一番無難に、削らないし手も加えていない。
紫がかる双眸はすでに闇色をしている。睥睨するわけでもないのにアキトの目は緊張感がある。欲望の在り処を悟らせないから警戒が緩められない。警戒の緩急が付けられないから熱量の消費も著しい。リョウはさっさと退散にするに限ると背中を向けようとする。泳いだ目線の隙をつかれた。
「お前があんな目をするとはな」
「あぁ?」
声が愉しげであったから反射的に睨みつける。愉しいのは優位に立つ時であるから看過できなかった。アキトの方ではその辺りを判っていて揶揄している節がある。子供扱いに過敏なユキヤが真っ先に反応している。一連の騒動でもユキヤはアキトの掌握どころか逆に手玉に取られた感じがあるので余計に噛み付くのだ。だがここにはリョウしかいないし、アキトもリョウを指して言っているのだろう。ひょい、とアキトの体が壁から離れた。力を入れていないのに大儀そうで、苦労しているようでなんでもないようにこなす。視線や目つきと一緒で思わぬ強さを見せながら普段は片鱗さえ覗わせない。三つ編みが尻尾のように律動を刻んで揺れる。
アキトの指が伸びて一房だけ垂らしているリョウの前髪を揺らす。固い鳶色の髪でもアキトに触れた途端にやわいように揺れる。鬱陶しくて払いのけるとアキトが笑った。離れていく指先がリョウの睫毛をかすめる。目の前を横切るそれに体を固くするのを、アキトは益々愉しげに見つめた。
「そういう顔をするなよ。寂しいって顔だ」
音を立ててリョウはアキトの手を払いのけた。叩き落としたと言っていい。アキトは気を悪くしたでもなく、叩かれた場所に手を当てもしない。
「なめてんのか?」
「別に。そういう顔をすると」
ずい、と顔が近い。前髪がかかって明暗の別れた眼の色が違う。口元が笑んだ。
「襲われるぜ」
反射的に頬を叩いた。侮辱や不平を感じる前に手のほうが先に動いた。このまま何かを言わせると傷を負うと本能が働いた。アキトはしばらく黙っていたが不意に顔の向きを直す。叩いた場所は顕著に腫れ上がって赤みや紫を帯び始めている。咄嗟のことであったから手加減していない。後悔はしてない。もっとぶん殴ってやればよかった。アキトの方でも挙措に乱れがない。殴られた被害はないと言いたげだ。
「ずいぶんお前は優しいんだな」
吐き出された言葉の幼さにリョウの方が怯んだ。もっと明確な侮蔑や不満や罵声に構えていた。アキトの唇が音を紡ぐ。お前は優しいんだな。死んだ奴のことを考えていたんだろう、見てれば判る。優しい、を揶揄で使わないことに対面したのは久しぶりだ。ユキヤやアヤノとでさえ優しいと言う言葉を使わない。嫌味としてならよく使う。だから優しいがこんなに穏やかであるということを思い出したのは久しぶりだった。アキトの手が伸びてリョウの手を取る。掴むでも引っ張るでもない速度で緩やかにリョウの掌のうちにアキトの腫れた頬が収まった。熱を帯びてる。腫れ上がったそこは樹脂の弾力と感覚の無さでリョウの体温とは連動しない。それだけに自分の行動が明確に跳ね返ってくる。打ち据えたあとのリョウに感じたことのない苦味が広がった。それでもリョウは黙ってアキトの好きにさせる。僅かではあっても詫びる気持ちがあった。後悔するのと落ち度を認めるのは違うことだ。だからリョウは殴ったことを後悔してはいないが、落ち度は認めるつもりだ。言い返すべきだった。アキトの立場とリョウの立場は違う。アキトのほうがいわゆる先輩であり、不服があるなら文章にするべきだった。そもそも気に食わないからぶん殴っていい決まりはどこにもない。
アキトはしばらく目を伏せていたが不意に見上げてくる。きょろりと大きめの目が覗く。
「おとなしいな」
「うるせぇ」
いちいち言葉にされるのは癪に障るがここで殴っては元も子もない。リョウが耐えるのをアキトは楽しそうに見ている。目元は鉄面皮でも口元が笑っているのだ。無意識なのかその弛みが果てしない。見苦しく崩れないだけに性質が悪いと思う。
「悪いとは言ってないだろう」
「ツラが言ってンだよ、くそ」
払いのけようとする手首を掴まれる。力がある。壊滅的な被害を出した作戦でも生き残っただけの力がある。作戦の欠陥さえ補ってしまうアキトの戦闘力は畏怖とともにリョウの耳にも入った。生存率が限りなくゼロ%に近い作戦での生還。それは、どういう。
仲間が、死ぬってこと
リョウの目が揺らいだ。アキトを映す眼差しが揺れる。痛みが。仲間を亡くす、痛みをこいつも。そんなわけはない、この部隊で。人種で差別された部隊に。いや、だから、こそ? 差別され区別されたからこその仲間意識の芽生え、は? ぐらぐらする。目眩がした。吐き気さえ帯びる。くそ、こいつが。アキトがなにか言えば全部帳消しになるのに。何か、言え。なにか!
「オレに、何を見る? 佐山リョウ」
暗紫の双眸に昏く灯る光があった。アキトは触れているリョウの手はおろか空間さえも支配した。ざぁっと引いていくものがある。感覚が失せる。唇の動き、が。瞬間的にアキトの手から離れる。ばち、と音がする程の強いそれに感じたのは痛みではなく解放だった。
離れたことを一瞬悔いた。すでに満ちていた夜闇の中へアキトを放り出した気がした。指先さえ曖昧な闇へアキトを突き放したのだと怯む。弾かれてリョウの体も傾いだ。双方で殺せなかった衝撃にリョウだけが息を呑む。だからアキトの伸びた手がスカーフを掴むことさえ容認した。突き飛ばした負い目がリョウを素直にさせる。アキトは手加減なくスカーフを掴むとリョウの体を引き寄せる。そのまま唇が重なった。触れるなどというものではない。貪っている。噛み付くほど深い口付けと当たる歯列にリョウの思考は燐光を放って灼けた。目の前を埋めるのは紫と蒼の交じり合ったアキトの濡れ羽色だ。昏く揺らいで、それなのに目が離せない。黒真珠の照りの密やかさと艶やかさを帯びたそれはひどくリョウを抉った。熱さえ伴った侵蝕であると判っているのに拒否できない。アキトの行動がリョウの対応さえ制御する。
「なんだ、ずいぶん、可愛いな。襲いたくなるからそういう顔はよせ」
アキトの言葉を茫洋と咀嚼したリョウの顔がみるみる真っ赤になった。きょとんとするアキトの目の前で、リョウは頬を火照らせた。耳が千切れたんじゃないかと思うほど熱い。何か言い訳をしよう、事態を打開しようと思うのに言葉が何も出ない。襲いたくなるという評価が、アキトを相手にしてのみ悪くなく働くということを知った。同時にそれは羞恥さえ呼んだ。リョウは本能と理性でまさに正反対のそれのせめぎあいに赤面した。
「褒めてるんだぜ」
言葉がない。せめて悪口であればよかった。褒めていると言われて罵ることさえ出来ない。引き結ぶ口元がへの字になっていくのを止められない。不満が飽和した。アキトの指がリョウの頤を捉える。上を向かされ、その上に唇が再度重なった。だからそんな可愛い顔をするなよ。うそぶくアキトの顔が凶悪だ。腰を抱かれた。背骨がしなう。腰に続くなだらかな曲線をアキトは魅せつけるように強調して撫で回す。いい体してるな。丈は変わらないと思うのに威圧感が違う。しかもアキトのそれは普段は秘められているから厄介だ。目測を謝る。圧倒できると思って臨んでも返り討ちに合う。アキトの手がリョウの臀部を這う。割れ目へ手を滑り込ませて空隙を突く。ひっくり返った声が出そうになるのを力いっぱい殺した。リョウにも見た目に相応のプライドがある。ふふ、可愛いな、あんた。アキトの言葉遣いがいつの間にかあんただ。指摘と撤回を求める前に、また尻を撫でられて息を詰める。本当にかわいいよ。明確に艶を帯びたそれは目的さえ見せる。泡を食ってリョウがもがくのをアキトは制さない。
ばたばたと慌ただしくリョウはアキトを突き飛ばしてかけ出した。熱の集まりが無視できなくなりつつあった。アキトはあっさりとリョウを解放する。あれほどに熱を帯びてた手があっさり離れて、リョウは切ないような寂しささえ感じた。思わず振り向くのを見越したようにアキトが玲瓏と立っていた。長い三つ編み。軍属である立ち姿。年若さを感じさせない表情。後を省みない若さを秘めながら同時に老成したようなそれ。アキトが声を上げて笑った。
また、今度な
紅く濡れた舌が唇を這うのを見てリョウは這々の体で逃げ出した。後ろからアキトの明るい笑い声がした。珍しい。
《了》